昭和一九年八月二十二日夜十時十二分、鹿児島港から南へ百四十三哩はなれた北緯二十九度三十三分、東経百二十九度三十分、十島村悪石島の西北方、六.七哩の海上を航行しつつあった船団のうちの一隻が、敵の潜水艦の魚雷攻撃にあい、十一分ののちに沈没した。
 船の名前は対馬丸、六千七百五十四トン―――
 船団は三隻、それに砲艦宇治、駆逐艦蓮と二隻の護衛がついて、沖縄からの疎開者を鹿児島へ送るところであった。僚船、暁空と和浦の二隻は、対馬丸が火柱を吹き上げて暗黒の波間に消えるのを見とどける暇もなく散開した。
対馬丸は、学童、一般、あわせて千六百六十一名を満載していた。うち学童は八百余名である。
 これよりさき、昭和十九年七月七日夜、敵の沖縄島上陸必至とみた参謀本部の要請で、政府は緊急閣議を開催、奄美大島以南先島に至る琉球列島のうちの五大島嶼の戦力にならない老幼婦女子の本土ならびに台湾への疎開を決定し、ただちに関係先に指令が発せられた。
 しかし、一家の中堅である男子壮年者が沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の断ち難い愛情、それに加えて、航行中の敵潜水艦からの脅威もあり、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。
 短時日での予定人員の送り出しがあやぶまれたので、国策という名目のもとに、県庁、警察の職員および家族を率先疎開させ、これにより一般住民を啓蒙することに期待した。
 同時に、学童疎開に対しては、資質優秀な児童を安全地帯に移して、たとえ沖縄全県民が玉砕することになっても、子孫を後世にのこすことができる。したがって、優秀な教師と学童をいま疎開させるということは、将来に対処する重大な意義を有するから、他の一般婦女子よりも優先すべきであるとの理念により、とくに勧奨には熱意をもってあたった。昭和十九年七月中旬、垂範の意味で県庁、警察の職員の家族が疎開してから、昭和二十年三月最後の疎開までに、百八十七隻、人員にして約七万。そのなかで、犠牲になったのは対馬丸ただ一隻である。
 対馬丸乗船者中、学童だけについていえば、運よく生き残った者、わずかに五十九名。
 ―――年は七歳から十四、五歳まで、せめて子どもだけは安全な地区へ送ろうと願った両親の膝下をはなれた幼きもの約八百名が、おりから低気圧のため高くなった荒波の底深く船とともに沈んだ。死者のうち、氏名の判明している者は七百五十八名である。
 一般疎開者も生存者は百六十八名しかいない。祖国日本と琉球を結ぶ航路は、現在対馬丸の遭難現場近くを通っている。その深海の底でいまなお一千余の遺体が、穴のあいた船体のなかに横たわっている。
 
大城 立祐著 「悪石島 -学童疎開船対馬丸の悲劇-」プロローグより